「では30年前に貴方が彼女を死に追いやったと言うわけですね」
70歳を過ぎた老人は,静かに頷いた.
この男,白木孝三は一代で財を築き,巨万の富を得ていた.
もちろんその過程で多くの人間を裏切り,
人には言えない非道も繰り返してきたことは想像に難くない.
そんな男でも自らの半生を振り返り,後悔することがあるのだろうか.
「それでご依頼というのは,私にその罰を与えてくれということでしょうか」
長いこと裏稼業をやってきたが,誰かを殺してほしいという依頼は数えきれないものの,
自分を殺してほしいという依頼は初めてだ.
「本庄君,そうではないのだ」
白木孝三はロッキングチェアから腰を上げ,筆をとって絵を描き始めた.
そこには長い髪の美しい女性が描かれていた.
まだ未完成ではあったが,その瞳は怒りに満ちた不思議な雰囲気を醸しだし,
怨念のようなものを感じて寒気がした.
「・・見事な絵ですね.もしやこの女性がお話の朽木里美さんでしょうか」
「あぁその通り.彼女は私を殺したいと思っておる」
30年前に亡くなっている女性に復讐ができるわけがない.
老人の戯言に付き合う気はないが,なぜか席を立つことができなかった.
それほど老人の言葉からは切実なものを感じた.
「白木様,では依頼はどのようなものになりますでしょうか」
老人は私の言葉などお構いなしに筆をすすめる.
そしてふと思いついたかのように言葉を続ける.
「本庄君には彼女を弔ってほしい」
これがかつては悪鬼と恐れられた豪商の末路なのか.
目の前には過去の罪悪に押し潰され苦しんでいる哀れな老人がいるだけだった.
「白木様,私は大抵のことは何でもいたします,ですが・・・」
「そうではないのだよ.君はただ,その時まで見守ってくれればいい.
そうすれば何を成すべきか自ずと分かるはずだ」
もはや何を言っても老人の耳には入らないだろう.
私は黙々と筆をとる老人に別れを告げ,屋敷を出た.
◆
2週間後.また白木孝三から呼び出しがあった.
哀れな老人だが依頼は断ろう.そう思い私は屋敷に向かった.
「よく来てくれた本庄君.掛けてくれたまえ」
老人は心なしか元気を取り戻しているように見えた.
いや正確には,すべての苦悩を燃やし尽くし,
灰になる寸前のともし火だったのかも知れない.
私は老人の指差す方向に目を向けた.
「絵が完成されたのですね」
「あぁ半年も掛かってしまったよ」
見事としか言いようが無い絵だった.私は絵心など持ち合わせていないが,
それが老人の魂と引き換えに完成した新たな命だと感じた.
長い黒髪,白いワンピースを纏った美しい女性.
驚くべきことに両手には鋭いナイフを握りしめ突き出している.
瞳は怒りに満ち今にも襲い掛かってきそうなリアリティがあった.
「それで先日の件だが・・」
「白木様,その事ですが残念ですが今回は・・・」
老人は手をかざし,静かに首を横に振った.
「本庄君,もうあの依頼は完了しているのだよ.君が断ろうがね」
「どういうことでしょうか?私はまだ何もしておりませんが」
「この絵だよ.この絵を君に見せることが私の目的だったのだよ」
「白木様,おっしゃる意味が分かりませんが・・・」
「本庄君この絵はね,人を殺めた業(ごう)の姿なのだ.わかるかね?」
「・・・私も業を背負っていると?」
「それはいずれ君自身が考えることだ.ただ言えることは,君はもう依頼を受けている」
もう話すことはないと,疲れたように老人は部屋を出て行ってしまった.
そしてこれが,生きている白木孝三の最後の姿だった.
◆
翌日,私は白木邸へ急いでいた.
昨晩,白木孝三が何者かに殺害されたという.
白木邸に着くと殺害現場に案内された.
そこは白木孝三の書斎であった.
老人はあの絵の前に胸を鋭いナイフで刺された状態で仰向けに倒れていた.
しかしその死に顔はなぜか満ち足りた様子だった.
そして私は驚くべき光景を目の当たりにする.老人が死ぬ間際に完成した朽木里美の肖像画.
あの怒りに満ちた表情は聖母のような優しい顔に変わり,頬には一筋の涙を湛えていた.
そして両手で握られていたはずの”あのナイフ”は影も形もなかった.
半年も要した絵画を一晩で書き直すことなど不可能であったし,
ましてや絵の中の女が白木孝三を刺したなど,誰も信じないだろう.
だが私は知っている.老人は彼女を救ったのだ.自らの命と引き換えに.
(おわり)
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