懐かしい場所に来た。
世代交代により、新しくなった民の面々。
だが、その場所の雰囲気は、あの頃と変わらないようだった。
昔の自分の投稿を見る。
あの頃は自由だった。
よく遊び、よく悩んだ。文字列をこねくり回し、好き勝手に妄想した。
その妄想の産物を投下するには、この場所の緩い雰囲気は都合がよかった。
そこまで思い出して、愕然とする。
今の俺には出来ない。心から自由になって遊ぶことも、物語を空想することも出来ない。
大人になって生じた規範に囚われる。働き始めてから生じた、シビアな時間の制約に追い立てられる。
何も、なにも出てこない。
大人になった俺にもたらされたのは、成長ではなく、停滞だった。
何故?
あの頃から大人になるまで、さまざまな苦しみを味わった。
中学から続く『生きがいの喪失』、いわゆるスランプはそのままだった。
加えて、地獄のような病を背負う羽目になった。
楽しくもない仕事を続けながら、病苦を耐えた。病気によりまともに働けず、上司や家族から無神経な言葉をかけられることもままあった。
この世のすべてを呪うほどの憎悪を抱いたのも、大人になってからだった。
このまま、自分は、周りを無差別に殺傷する化け物になるのではないかと思った。
いつか現れた通り魔の存在が、他人事とは思えなくなったのもこの頃からだった。
苦しみにより精神が摩耗したのだろうか。
楽しいことを楽しむ感覚を忘れてしまったのだろうか。
こんな未来が待っているのなら、生きがいを喪失してからも生き続けた意味などなかったんじゃないか。
そんな考えが何度でも浮かび、その度に理性がそれを肯定する。
損得勘定に従うならば、少なくとも俺の人生は、楽しみより苦しみの方が多い。きっと死んだ方がマシなのだと、感情ではなく理性が判断を下してしまう。
心は動かない。何を見、何を読んでも、感動などしなくなった。
生きてさえいれば、どんな経験でも、どんな苦しみでも、物語として書き出すことができる。できると無根拠に思っていた。だから、どんな苦しみも無価値にはならないと信じていた。
だが、物語を書き出す能力すら無くなった。
苦しみを耐えた結果は空虚だった。
白紙のままのテキストに向かって、俺は、壊れた機械のように同じ問いを続けている。
生きることは素晴らしいことか。
自分の人生は生きるに値するか。
楽しみよりも苦しみの方が多い人生ならば、人の尊厳を守る最終手段として、その者の人生は閉じられるべきなのではないか。
それは、物語になるはずだった要素。誰かに吐かせるつもりだった台詞。
物語に描かれるはずだった人物に、自分自身がなってしまった。
擦り切れた精神は最後の救いを求めている。
これが、大人になるということなのか。
それとも、俺は、間違った道を歩んでしまったのか。
どうすれば、あの地獄の中で、自分の心を守ることが出来ただろう。
問う。
何度でも問う。
その問いが物語になる。
人の言葉を編み、思考を編み、彼らが見る景色を編む。
それは、難しいことではなかったはずだ。
それは、自由気ままにやってよい行為だったはずだ。
思い出そうとしている。
過去の思い出をなぞり、過去の感覚を思い出そうとしている。
楽しいと感じる心が欲しかった。
これが自分の結末だと認めたくなかった。
悲劇は誰も、何物も補償しない。
神の御手も頼りにはならない。
だから、模索の旅に出ることにした。
あの地獄の日々に、価値を見出すために。
自分の人生を無価値だと結論付ける前に。
理性は結論付ける。
こんな苦しみを背負うくらいなら、死んだ方がマシだと。
だが、もうひとつの理性は反駁する。
自分の人生が悲劇のままで良いのか、と。
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